大学はなぜポリバレントな人材を評価できないのか

R30さん「ポリバレント=多能工って言えばいいんじゃね?」を読んでもっともだと思うことがあったので少し書いてみようと思う。ぼくは大学の中の人なので、一般の人よりは偏っているかも知れないけれど、「Polyvalent」な人材が特に「専門家」と言われる人たちの中で正当に評価されていないのではないかという文脈の中で、

 「専門性」という名の下に隠蔽されたこれら「専門家」の視野狭窄、柔軟性のなさ、そしてもっとぶっちゃけて言うと「使えなさ」みたいなものは、最近とみに深刻だと思う場面が増えているのだけど、当の専門家の間にはそういう世間の評価に対する反省というのがまったくないというのがさらに深刻ですな。要するに、知的退廃というヤツでしょうか。率直に言って頭が悪いんですな、特定の「専門領域」しか持たない人たちというのは。あるいは現実の社会を知らないというか。

 個人的には、その元凶となっているのが「大学」だと思うわけで。アカデミズムの世界ほど、特定分野の専門性を掲げずにいろんな領域を横断的に考える人間の評価を、不当に貶めているところもないと思う。確かに純粋科学の領域などでは、特定の専門領域に深く深く入っていく、生涯をかけて取り組むことで達成できる何かもあるとは思いますよ。でも実際の世の中で役に立てようと思ったら、複数領域の専門性を併せ持っている「多能工」な人のほうがずっと高い価値を生み出せる。だったら、純粋学問と社会の間の「実務系学問」の領域ぐらい、多能工専門家の評価をもっと高くする仕組みとか、あってもいいんじゃないかと思うのだが。

という。
「元凶」とまで言われるとちょっとドキッとするが、まあ当たっていると思う。一般に大学では自分の専門のこと以外でいかに優れていても評価されない。まあそれはフェアなのだと思うが、それが勢い余ってた他の領域で優れていると、「そこに割く力が余っているなら専門領域でもっと良い仕事ができるんじゃないか」、極端に言えば「さぼってる」ってことじゃないか、みたいな雰囲気があると思う。これは明らかに間違っているのだが、大学の中も外も、それなりに競争社会だし、足の引っ張り合いもあるわけで、勢いこういった雰囲気が蔓延していると思う。教授同士でそれをしている分には、まあお互いのアクティビティを下げているという程度のことだが、学生に向かってもそのような姿勢で教育をしたり、評価をしたりするのはいただけない。が、残念ながら現実としてはしばしば見られる光景である。
こういったことのもう一つの背景は、大学(特に日本の国立大学)がきわめてお役所的であるということにも原因があると思う。ひどく縦割りで視野が狭い人が沢山いる。全てのポジションはどこかの研究科、専攻に属しているし、どの講座にも名前がついている。○○学研究室といったような。そうすると、やはり「○○学」を研究しなければいけないような感じになるし、実際人事の時にはそれを基準に選考が行われることが多いわけで、いきおい看板の枠から外れた才能を発揮するのは憚られるような雰囲気が漂うのである。もちろん講座をスクラップアンドビルドするところも増えてきているけれども、保守的なところもまだまだ沢山あるし、インターディシプリナリな講座名をつけてみるとカタカナのわけの分からない名前になって、結局最大公約数的なところに落ち着いちゃったりするのが悲しいところである。
いっそのこと、文系理系も関係なく、全くしばりのない講座を作って、そこに「Polyvalent」な教授を選考すれば、少しは突破口になるのかも知れない。全部をそうするのは良くないが、ほんの少しでもそういった講座を設ける大学が出来て、かつそこのスタッフが良い仕事をすれば、大学も変わってゆくかも知れない。
せっかく国立大学を文科省から切り離して「国立大学法人」にしたのだから、そんなところが出て来ても良いんじゃないかと思うのだが、結局は文科省に予算で縛られている以上、大学からそういった改革の芽が出てくる可能性はきわめて少ないのが現状だと言わざるを得ない。