易のはなし

唐突だが、一時期「易」に凝ったことがある。易というのはご存知のとおり、当たるも八卦、当たらぬも八卦のあれ、易者が筮竹(ぜいちく)でじゃらじゃらやるあの占いのことである。いや別に凝ったというほどでもないが何かあるたびに卦をたててみたりした時期がある。ディックの「高い城の男」を読んだのもこの頃だったり。
易と言われても、ちょっと興味はあるけれど良く分からないという方はgoogleにお伺いをたててみられれば良いと思うが、要は50本(使うのはそのうち49本だが)の細い棒をランダムに二つに分けることで、64ある「卦」を選び出し、それで占いをするという古い中国の占術である。易経にはそれぞれの卦の解説と言うか、出てきた卦がどういう意味を持つかが色々書かれている。
筮竹でじゃらじゃらやっても良いし、コインを投げても良いし、サイコロで決めても良い、とにかくランダムに卦は出てくる。そういう意味で論理性はない。易経には吉凶が書かれ、あとは結構「田んぼに龍がいるさま、大人を見るのに利がある」などと書かれていて、分かったような分からないようなである。
占いは全く確率によるから論理性なんてどこにもない。易経自身も読んで面白いものではないし、何でこんなに長い間読み継がれてきたのか、不思議な感じがする。ところが、あるときふと気がついたのは、これがランダムだってことが逆にとっても大事だったのではないかということ。
易が成立したのは古代の中国で、おそらく戦争に明け暮れていた世の中だったのだと思う。実際、戦争をするのが良いか悪いかということの判断はしばしば易経にみられるし、結婚するのが良いか悪いかも書かれているが、結婚だって現代日本で考えるような結婚の善し悪しというよりは、政略結婚の可否を占ったのだろうと思う。
さて、易はどういう時に占うかっていうと、とにかくどうするのが最善か考えて、答えが見つかる時はその通りにしなさいと、考えても分からない時は易に訊きなさいということになっている。占って自分の気に入らない答えが出てきても、占い直してはいけませんというきまりもある。どうしたら良いか分かっている時にはその通りにしなさいというのは、全く理に適っていて面白いと思うのだが、どうしても答えが出せない時に、ランダムな答えに行動を委ねるというのは、ちょっと怖い気がする。けれどもよく考えてみると、弱肉強食の世の中で、一番危険なのは常に同じ行動に出ることなのかも知れない。敵に読まれてしまうと不利ということがある。じゃんけんでいつもチョキばかり出す人が弱いのと同じ理屈である。生死を分つ重要な局面で常にランダムな行動に出るというのが、実は生き残るための最適の戦略であるという状況のもとで、易経は育ち、生き残ってきたのかも知れない。古代の人たちが筮竹をじゃらじゃらしたり、亀の甲羅や動物の骨を焼いたりしているのは、今のぼくらから見ると原始的というか素朴というか、わけ分からないことだけど、案外生き残りには大切な戦略だったのかも知れないと思う。